のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第312回 光秀と歴史12 小和田哲男氏の本

早速ですが、1冊取り上げてみます。

2020-0306-1

明智光秀と本能寺の変(小和田哲男著)

 

先に名前を出した、歴史学の権威・高柳氏の影響を受けた歴史家、小和田哲男氏の書いた本を読みましたが、内容に満足することはできませんでした。
明智憲三郎氏の本との落差がすごいです。都合の悪い資料は無視して、持論に役立つ資料だけを引っ張っていることがわかります。

 

たとえば、本能寺の変の起きた年に、信長主従は家康領を何かの理由で訪れています。数週間の旅の間、光秀は信長の宿のすぐそばに、いつも宿泊していたという記録が「当代記」にあります。
「光秀は老人なので、信長のすぐそばに宿を仰せつかった」という記述があるのです。

 

光秀の享年には、いくつかの説があります(55歳説と67歳説が有力)。当時49歳だった信長にとって、55歳の光秀は老人でしょうか?これはいつの時代だって同様ではないでしょうか?

 

当代記は、一級資料とはみなされないかもしれません。しかし、「本当は老人ではなかったのに、光秀を老人としておきたかった理由」が何かあるでしょうか?それが何も無いのであれば、「光秀は老人」という記述をむやみに無視することはできないはずです。

 

また、小和田氏は、光秀が67歳まで現役で活動していたことに懐疑的で、55歳の方が現実的だと考えています。徳川家康、毛利元就、島津義弘、尼子経久、朝倉宗滴…70歳を超えて現役で活躍していた武将はたくさんいます。光秀が67歳だったとしても、全く不思議はありません。昔の平均寿命が50歳くらいだったとしても、「光秀は老人」という記述を無視するほどの材料にはならないと思います。

 

しかし、小和田氏は、明智軍記そのままに55歳説を採っています。当代記を無視するのであれば、無視するだけの材料を提示する必要があるのではないでしょうか?それを何も行っていません。
 
土岐氏に関する研究も足りないと感じました。父親の名前を、明智軍記そのままに光綱としています。もちろん、歴史家としての常識があるから、あくまで「慎重な姿勢で」明智軍記を使っていますが。

 

他にも…細川家記、別名・綿考輯録(めんこうしゅうろく)の内容を信用できるものとして、引用することが目に付きましたが、これは明智軍記よりも後に出た書物なので、明智軍記とかぶる内容については精査が必要なのですが、それを行っているようには感じられませんでした。むしろ、両書に書かれているなら信憑性が高いという態度を感じました。

 

愛宕百韻の解釈もひどいと思いました。内容や日付の書き換え問題には全く触れず、表面に触れるだけで、連歌についても説明がありませんでした。

 

秀吉が書かせた「惟任退治記」の思惑にも触れていませんでしたし、ルイスフロイスの証言の大半も取り上げない箇所が多く、従来の定説を踏襲するだけと思われました。

 

秀吉の行った情報操作の影響を受けて書かれた本、明智軍記を参考に書かれた本というのが、あたしの感想です。

 

歴史の真実を知りたい人が読む本とは言えないのではないでしょうか?これまでの定説、真実から遠い定説を一応知っておこうという考え方の人が読む本です。

 

wikipediaで小和田氏を調べると、次のような記述が出てきます。
小和田哲男は「明智軍記の作者が、現在私たちが知りえない何らかの情報を握っていた可能性は皆無とは言えず、同書によってしか知ることができない情報も少なくない。もっとも、軍記物としての限界から、そのまま信用できない部分も多く、記載内容を吟味する必要があるが、全く史料的側面がないわけではない」とする。

 

つまり、慎重な姿勢で都合よく用いると宣言しているようなものです。

 

あたし、言いたい放題ですかね?いいえ!本音を言ってません。本音を言えば…
「金返せ!二度と買ってやらん!」

 

ごめんなさい、口が過ぎました。けれど、読者がこういう感想を持っていることは、知っていただきたく思います。