のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第318回 光秀と歴史18 光秀と家康

実際の歴史では、信長は天下統一することなく世を去りました。

信長が天下統一後に、朝鮮半島や中国を侵略する意思があったという憲三郎氏の説については、まだ議論の余地があるかもしれません。いくつかの資料から、それを匂わせるものもありますが、証拠として弱いと考える研究者が多いのです。

今後の新資料の発見に期待です!

憲三郎氏の説を強化する証拠が見付かると、あたしは思いますが。

 

  

明智憲三郎氏の説

本能寺の変に関する憲三郎氏の説は、次のようなものです。

 

 信長が家康との同盟を破棄して、本能寺で家康を殺そうとした
 本能寺の変の直前に、信長と光秀は(地形を調べるために)家康領を視察した
 安土城では警戒されるので、手薄な本能寺を現場に選んだ
 実行役を任された光秀が、これを逆手にとって信長を殺した
 光秀は事前に家康に危険を知らせて、密かに家康と同盟を組んでいた
 光秀と家康の同盟に立ち会った細川藤孝(ふじたか)が、秀吉に通じていた
 秀吉は、本能寺の変が起こることを藤孝から知らされていて、周到に準備していた

 

ここでは、多くの歴史学者が信じようとしないこと、光秀と家康が同盟関係にあったかどうかを考えてみます。

 

 

信長の同盟相手

信長と家康は20年ほど同盟関係にありましたが、親の年代では敵同士でした。この「20年の長期同盟」を信じて疑わない歴史学者が多いです。「信長が家康を裏切るはずがない」ということを根拠なく思い込んでしまうようです。

 

信長にとって、家康は東の抑えとして利用価値がありました。

しかし、本能寺の変の半年前に、武田家を滅ぼして、東の脅威はあまり無くなっていました。家康は、強敵・信長と戦わなかったので、次第に戦力は強大化しており、信長にとっては無視できない存在になっていました。

 

当時の同盟関係や婚姻は一時的なものであり、情勢次第では裏切られることもたびたびでした。汚い行為を世論で追い込むような現代とは、常識自体が違っていたと考えるべきでしょう。

 

信長は、四国の長曾我部(ちょうそかべ)氏と良好な関係にありました。長曾我部元親の嫡男・信親(のぶちか)の「信」は、信長からもらったものです。しかし、情勢の変化によって、信長は長曾我部氏を潰そうとしていました。

 

このように考えれば、武田家が無くなった時点で、長曾我部氏同様に、徳川を滅ぼそうと考えても、不思議はありません。

この考えを受け入れられないのは、「20年の長期同盟」を過大に評価しているからではないでしょうか?

 

 

光秀と家康の同盟

光秀と家康の同盟に関する資料が多く残らなかったことが残念ですが、一点忘れてはならないことがあると思います。

 

密約や陰謀の類が書面に残ることは稀です。

 

極論ですが、「政治家が贈収賄の記録を残していなかったらシロ」だと信じますか(笑)?前後の状況を考察して、蓋然性の高さを判断する必要がありますよね?

 

本能寺の変は、陰謀的要素の強い事件です。証拠となる資料の無い空白部分に対しては、蓋然性の高い解釈が求められてくると思います。

 

  

家康の感じた恩

あたしは、憲三郎氏の提唱する、光秀と家康の同盟説を支持しています。それは、大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ後、徳川家による光秀への好意的な行いが多くあったことがわかっているからです。

そして、その理由をしっかりと説明できる歴史学者を知りません。みんなが触れない場所になっているように思われます。

 

その最たるは、本能寺の変で活躍した光秀家臣・斎藤利三(としみつ)の娘を、三代将軍・家光の乳母(実母説有り)にしたことや、家光の名前の「光」でしょう。

 

信長に滅ぼされるところを光秀によって救われた、同盟を組んだのに光秀を助けられなかった…家康が光秀に対して恩を感じていたからこその、好意的な行いと考えることがもっとも自然と思われます。

光秀と家康の同盟説を否定したり、無視したりする歴史学者は多いですが、それを行うのならば、家康から光秀に対する好意的な行いについても、同時に論じていただけると、より信憑性の高い説を見出すことができるのではないかと思います。

 

  

現代と感覚の異なる血族意識

余談ですが…長曾我部元親は、信長の死後、秀吉の命によって、九州の雄・島津氏討伐に遠征し、嫡男・信親が戦死して大きく落胆しました。元親と信親は、二代続けて石谷(いしがい)氏から妻を娶っていて、土岐氏とのつながりを大切に感じていました。

土岐氏には、本能寺の変で危急を救ってもらった恩があったので、土岐の血を引く信親の戦死は、元親にとって耐えがたいものだったようです。

 

そこで、元親は、嫡男・信親の娘を、四男・盛親(もりちか)に嫁がせるという…現代でも当時でも考えられないような荒業(?)をしました。女性は想像してみて下さい。父親の弟に嫁ぐ気になりますか(笑)?

そうまでして、土岐の血を残そうと考えたんですね…。当時の人たちが感じていた「恩」や「血族」は、現代人のものとは随分違うようですね。