本能寺の変から、明治以降の歴史についてお話ししてきました。少し時代を戻します。
光秀の子孫~その後
本能寺の変の後、光秀の子孫は、秀吉の残党狩りによって多くが殺されたと思われていますが、実は…かなりの数が逃げのびました。しかし、生き残った者たちの道は、とても険しいものでした。
逆賊の子孫
その汚名は、一族が平和に暮らす権利を奪っていきました。光秀の子孫は、逃亡の末、たどり着いた地名を名字にして明智であることを隠したり、「明田(あけた)」と名を変えて、土岐一族の誇りを抱いて生き続けました。
現代でこそ明智差別は見られませんが、昭和の初期までは、ずっと差別の類が残ってきたのです。ひど過ぎると思いませんか?親が殺人や窃盗をして、家族や子供が「犯罪者の家族」と言われるよりも、ずっとひどいことです。
だって、本能寺の変から400年も…ですよ?
苦難の連続
何故、このようなことが起こったのか…本能寺の変という事件の特殊性もさることながら、その時々の権力者の都合に翻弄された結果でしょう。
秀吉の時代には主君・信長を討ち取った逆賊として狙われ、江戸時代には怯えて身を潜めていました。明治以降には秀吉が英雄視される中で、光秀は逆賊として扱われてきたので、明智一族にとっては苦難の時代の連続でした。
明智憲三郎氏は、子供の頃から、名乗るたびに、「ああ、あの裏切り者の?」と返されてきたそうです。アダ名が「逆賊」になったこともあったそうで、かなり嫌な気持ちを味わってきたでしょうね。
情報操作の被害者!?
明治以降の政府や軍部にとって、「秀吉は英雄、光秀は逆臣」としておくことが、民衆心理を操作して戦争を行うのに都合が良かったのです。
あれれ?何か気付きませんか?
何故、本能寺の変の直後の秀吉は、「惟任退治記」によって、光秀を逆臣扱いしたんでしたっけ?
秀吉の掲げる正義を正当化するために、彼にとって都合の良い事実を「惟任退治記」によって広めたんでしたね。都合の悪い情報は隠し、都合の良い情報だけを民衆に知らせて、世の中を望む方向へ誘導すること…早い話が情報操作です。
秀吉の行ったことと、大日本帝国が行ったことは、基本的に同じなのです。
いつの時代の権力者も、やることは大差ないということがよくわかります。