のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第311回 光秀と歴史11 作られた定説

明智光秀の前半生には謎が多く、どこでどのように生まれたか、父親の名前すら不明とされてきました。
室町時代後期、没落していく土岐(とき)一族に連なる者としかわかっていませんでした。このような条件の人は当時たくさんいたでしょうし、戦国時代の荒れ様もあって、しっかりとした家系図を作れる状況にはなかったようです。

 

光秀は土岐一族の出世頭で、信長に認められて功績を上げて有名になったところで、不名誉な謀反を起こしました。そして、謀反の直後に秀吉に討ち取られて、秀吉の政治宣伝に利用されてしまいました。そして、光秀と親交のあった人も真実を語らぬままに時代が過ぎてしまったのです。

 

その結果、明治以降の光秀研究では、明智軍記は信用できない悪書とされながらも、利用できる情報が少ないために、「明智軍記を慎重に解釈する」ということが罷り通るようになってしまいました。

 

歴史学の権威とされる、高柳光寿氏(-1969年)が慎重な姿勢ながらも、明智軍記に書かれているいくつかの内容を容認しており、軍記物(作り話)が歴史の定説になっていきました。

 

一旦定説が作られてしまうと、それを元に小説が書かれたり、歴史ドラマが創られたりして一般に広まります。それを見た人たちは、小説やドラマの出来に満足して、真実を知ろうとはしません。
実際、あたし自身、NHK大河ドラマなどを見ていて、「史実通りに物語が進んでいるか」などと考えることはありませんでした。
 
本能寺の変にはとても多くの説があります。イチイチ紹介する気にもなれません(笑)。wikipediaをプリントスクリーンしたものを載せます。
スクリーンショット (212)
古い説では説明の付かないことがあるために、新しい説が考えられます。しかし、新しい説を唱える際にも、未だに明智軍記を用いている人が多いのです。
史実はどうであったのかを研究するためのものに、作り話を混ぜてはいけないでしょう?明智憲三郎氏は、「科学の論文の材料にSF小説を用いるかのようだ」とお話ししておられたと思います。その通りだと思います。
 
 
本能寺の変の真相を知ろうとして手に取った本に、次のような特徴が見られたら、その本は、明智軍記を用いて組み立てられていると思って良いでしょう。

 

光秀の父親の名前は光綱、叔父の光安が後見人
光秀が死んだ年齢が55歳
斎藤道三と一緒に、斎藤義龍と戦って敗北、明智城が落城
朝倉義景に仕えて鉄砲隊を組織した
足利義昭と信長に同時に仕えた(同時期に両属した)
愛宕百韻を正しく解釈していない
惟任退治記の内容の信憑性を検討していない
家康家臣・穴山梅雪が農民に殺された(実際は切腹)
本能寺の変の後の家康軍の動きに説明が無い
後の徳川家が土岐氏に好意的な扱いをしていることに触れていない
明智軍記ではなく、細川家記を多用している

 

また、持論を展開するために、不都合な証拠を無視する傾向が強いです。これでは、どのような説を唱えようとも、歴史の真実に近付いたとは言えないでしょう。

 

この当時に起きたことを矛盾なく説明しているのは、明智憲三郎氏しかいないと思われます。