あたしたち一般人にとっては、連歌や俳句なんて…趣味でやってる人以外わかりませんよね(笑)。いろいろなルールがあるみたいですが、あたしにもよくわかりません。
連歌は、5・7・5を詠んだ人と別の人が、その意味を受けて7・7を詠みます。次の人は、それを受けて5・7・5を詠みます。百韻ですから、それを100も続けます。そして、1~3番目と100番目の句は、その会でとても重要な意味を持つ特別な歌のようです。
さすがに覚えてないんで、本を引っ張り出してきました(笑)。
<正しい愛宕百韻>
発句
時は今 あめが下なる 五月かな(光秀)
土岐氏は今、強い五月雨に叩かれているような苦境にある
(これを何とかして改めたいという祈願)
脇句
水上まさる 丹羽の夏山(行祐)
土岐氏の先祖の水上氏よりも勢いのある、夏山のような光秀さんなら出来ますよ
三句
花落つる 池の流れを せきとめて(紹巴)
没落した池田氏をせきとめて、光秀さんが棟梁を引き継げば良い
<書き換えられた愛宕百韻>
発句
ときは今 あめが下知る 五月かな
土岐氏である自分が天下をとる5月である
脇句
水上まさる 庭のまつ山
三句
花落つる 流れの末を 関とめて
書き換えられた方の脇句・三句は、前の句を何も受けていません。そして、連歌のきまりとして、前の句の季語を受ける必要がありますが、旧暦の5月は夏ですから、夏山をまつ山にしてしまっては、5月と無縁になってしまいます。
歌の達人の集まりでは、このようなミスは起こりません。
脇句と三句を詠んだ二人は、光秀と深い親交があり、光秀の詠んだ句の内容を正確にとらえて応援していました。二人は著名な文化人であったため、秀吉が彼らを処断するとはありませんでした。
光秀に謀反の気持ちがあったことにするため、二人が光秀の気持ちを知らなかったことにするために、秀吉は第1~3句の言葉を書き換えたのです。二人の方も、光秀亡き後、秀吉に逆らうわけにいかず、秀吉が句を書き換えたことを黙認したのでしょう。
書き換えられる前の句と、書き換えられた後の句が、両方資料として見つかるのが現代なんですよねぇ。ホントに面白いです!