のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第309回 光秀と歴史9 史料評価

愛宕百韻で書き換えられたのは、言葉だけではなく、「詠んだ日」もでした。

 

本能寺の変は、6月2日の未明に起きています。愛宕百韻が行われたのは5月24日。秀吉は、これを28日に詠んだことに書き換えました。この年の5月は29日までしかなかったので、24日と28日ではだいぶ印象が変わってくるからです。
6月に起こす謀反の気持ちを、5月24日に詠まれていると、秀吉にとって不都合だったと思われます。

 

愛宕百韻で光秀が詠んだ歌を、本能寺の変を起こした動機に関連付けようとした秀吉の思惑が見えてくるでしょう?

 

ちなみに、明智憲三郎氏が日付書き換えを見破った手法が面白いんですよ!

 

愛宕百韻の開かれた日は、24日と28日の説があったんですが…これだけではどちらが正しいかわかりません。この当時、日記を書いていた人がいたんです。「言経卿記」「多門院日記」「家忠日記」から、京都周辺の天気が24日は強い雨、28日は快晴であったことを突き止めました。

 

28日の快晴の下で、歌の達人が集まって五月雨について詠むはずがないんです。

天気を調べて真実が見付かるって、なんかすごくないですか!?もし28日も雨だったら、ここまで明確に見破れなかったかもしれないんですから。 

 

もし、みなさんが光秀関係の本を読むことがあったら、愛宕百韻の解釈が正確になされているかをチェックしてみて下さい。それが行われていない歴史本は、信憑性が低くなると思って良いでしょう。

 

本能寺の変を研究している歴史家は、持論を展開するのに不都合な証拠を無視する傾向が強いです。
たとえば、愛宕百韻の改ざんに一切触れていないとか、「下なる」と書かれている資料を認めつつも「下知る」の方が資料が多いから「下知る」のみを採用するとか。
 
 
秀吉には…光秀が信長を討った後に、その光秀を討って、その先に天下を手中に収めるための大義名分が必要でした。貧しい農民の出では、天下を狙う口実がなかったはずです。
秀吉自身は惟任退治記の中で、「信長を尊敬している」と言いながらも、「信長は淫乱で残忍な性格で光秀の恨みを買っていて、信長と光秀は仲が悪く、光秀には天下取りの野望があった」と…触れ回る必要があったのです。
記述をつなげると、「淫乱で残忍な信長を尊敬している」って無理があります(笑)。現代人はここを見逃してはいけないと思います。

 

信長には生き残った息子たちがいました。秀吉が本当に忠誠心に溢れていたのなら、彼ら息子たちを後継者にして、自分はその補助に回るのが自然ですが、実際には、信長の息子も信長の旧家臣(秀吉にとっての同僚)も打ち滅ぼしたり、従わせていきました。

 

天下を欲していたのは光秀ではなく、秀吉だったと言えましょう。