のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第307回 光秀と歴史7 秀吉の改ざん

信長と光秀の関係は、信長の政策の方向転換がなされるまでは良好だったのですが、別の記録も残っています。
本能寺の変の直後に秀吉が書かせた「惟任(これとう)退治記」では、信長が夜な夜な美女3000人を相手にしていたとか(うらやm…いえいえw)、信長は残忍な性格で、光秀に恨まれるような行動をとっていたから殺されたとか、光秀は野心家で天下がほしかったとか…そういった創作が行われています。

 

情報の無い当時の人たちが、こういった話を読み聞きして真実を見分けることは難しかったでしょう。仮に真実を知っていたとしても、勝者の語る歴史に異論を唱えれば首の飛ぶ時代だったでしょう。真実を知っている人たちは、秀吉の逆鱗に触れるのを恐れて何も語らなかったのだろうと想像できます。

 

秀吉は惟任退治記によって、「欠点だらけの信長を恨んでいた光秀、天下のほしかった光秀を退治したので、これからは自分・秀吉が天下を取る」そう世の中に宣言したのです。



光秀に天下取りの野望があったと、秀吉が示した証拠に愛宕百韻(あたごひゃくいん)があります。本能寺の変の少し前に行われた連歌の会です。ここで光秀が天下取りの野望を示していたというのです。

 

 時は今 あめが下知る 五月かな

 

時は土岐に通じ、あめが下は天下を意味し、知るは統べるに通じます。「土岐一族である光秀が天下を取ろうという野望を詠んだ歌」と決め付けたのです。ところが、これは秀吉による書き換えであることが明らかになりました。

 

光秀が詠んだ歌は、本当は次のものでした。

 

 時は今 雨が下なる 五月かな

 

土岐氏は今、強い五月雨に打たれている苦しい状況にある。なんとかして、これを改めたい…そんな気持ちを込めて詠んだ歌です。実は、別の理由から既に謀反を計画していた光秀でしたが、天下がほしいという野望は詠み込んでいません。

 

秀吉による書き換えの証拠は、調べるほどに出てきます。