のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第306回 光秀と歴史6 光秀と秀吉

信長という人は、確かに厳しい人ではあったようです。やるべき仕事に決して妥協しない、家臣にもそれを求めます。けれど信長は、一般に伝えられているような、残忍な人ではなかったようです。

 

規則正しい生活をして、目的を遂行するために邁進する…信長公記の淡々とした記述からは、そういった姿が浮かんできます。物事を合理的に片付けていく光秀とは、性格が合っていたようです。

 

惟任日向守(これとう・ひゅうがのかみ)という名前を、光秀は信長の口添えで受けていました。惟任は九州の姓で、この先に九州を切り従えていく武将に与える栄誉…そんな感じでしょう。日向守は、日向(現在の宮崎県)辺りを治める官職で、実権は無いものの、こちらも名誉あるものです。

 

光秀より古くから信長に仕えていた、丹羽長秀(にわながひで)は惟住(これずみ)の姓だけを受けました。秀吉は筑前守(ちくぜんのかみ)の官職だけを受けました。姓と官職の両方をもらっていた光秀は、信長からの信頼が最も篤かったのです。

 

「光秀と秀吉がライバル関係にあった」と主張している歴史家が未だに多くいますが、信長からの評価が全く違う状態でしたから、ライバル関係だったとは言えないでしょう。
現代でも、会社などで役職を複数持っている人と、1つだけ持っている人がライバル関係にあったというには無理がありませんか?

 

宣教師ルイス・フロイスの「信長は、奇妙なばかり親しく明智を用いた」という記述があります。キリスト教を擁護していた信長を光秀は倒してしまったので、光秀に対して好意的な書き方はされていませんが、この記述からも光秀の評価の高さがうかがえます。

 

他にも…光秀の働きに対して、信長は「天下に面目を示した」と絶賛していました。光秀は、信長に対して「路傍の石のごとき(とるに足りぬ存在の)自分を救い上げてくれた恩人」と感謝し、二人の関係は良好な状態が続いていたのです。

 

光秀謀反の理由は諸説ありますが…信長の政策の方向が、光秀の悲願である土岐(とき)氏の再興を打ち砕くものと明らかになり、放置しておいては一族が滅ぶという認識の元に決断されたもの…あたしは明智憲三郎氏の説を全面的に支持しています。