のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第305回 光秀と歴史5 惟任退治記

よく言われる光秀謀反の動機に、信長とそりが合わなかったというものがあります。真面目で面白みの無い光秀を信長が笑い者にしたことがあったとか、慈愛の気持ちの強い光秀と残忍な性格の信長は合わなかったとか、光秀が敵を説得するために自分の母親を人質に出していたのに、信長がそれを見殺しにしたとか…そういったことが積み重なって、恨みから信長を殺したという怨恨説ですね。他にも、「光秀も天下がほしかった」という野望説もあります。

ところが、これらは全て作り話で、信頼できる資料には出てきません。

本能寺の変の数ヶ月後に書かれた「惟任(これとう)退治記」という本があります。惟任日向守光秀を討ち滅ぼした記録を、秀吉が周囲の人に書かせたものです。自らの功を誇り、秀吉にとっての都合の良い歴史を広めようとした本と言えましょう。勝者の作った歴史ですね。

惟任退治記や明智軍記(後日説明)を元に、甫庵信長記(ほあんしんちょうき)や絵本太閤記(えほんたいこうき)が作られていったため、歴史の真実はどんどん闇に埋もれていきました。

近年までの歴史家たちの活動によって、惟任退治記に書かれている内容で、事実とかけ離れている箇所がいくつもわかっています。

たとえば、信長の死の瞬間の描写も全く違います。惟任退治記によれば、信長は側近の女たちを刺し殺して本能寺に火を付けて死んだことになっています。しかし、別の資料を見れば、信長は女たちを真っ先に逃がしていることがわかります。

信長の死の瞬間を、遠く離れていた秀吉は知りません。秀吉が書かせた本には、信長に関する真実が書かれている可能性が極めて少ないのです。

「女たちは急ぎ罷り出でよ(急いで逃げろ)」

逃がされた女たちの証言を、信長の側近の太田牛一という人が、「信長公記(しんちょうこうき)」という本に書き残しています。信長公記は、感情的な描写が極端に少なく、信憑性の高い資料と評価されています。

少々脇道にそれますが、信長公記にも正確な話と微妙に不正確な話が混じっているところが面白いです。信長公記では、光秀の謀反を知らされた信長は「是非もなし(謀反が事実かどうかを調べる必要はない)」と語ったと書かれていますが、信長の連れていた黒人の元奴隷・彌介(やすけ)が本能寺から脱出した後に周囲に語ったことが伝わって、スペインの「日本王国記」に記録されています。

信長の最後の言葉は「余は、自ら死を招いたな」だったそうで、信長は自らの行いによって、墓穴を掘ったことを知って死んだというのです。この証言をどう評価するかで、真実探しが全く変わってしまうのも、歴史の面白いところですねぇ(^^)/