のどかなる~Tierra Santa

フラメンコギタリストいわねさとしが願う、世界中の人々の平穏な日々

第304回 光秀と歴史4 当時の時代状況

将軍・足利氏は、室町幕府成立当初からあまり強くありませんでした。将軍家の権威は弱く、世の中は次第に荒れていきました。室町幕府の末期には、土地の統治者を表す…管領、守護といった役職は肩書程度の意味しか持たず、実力者が隣の国を攻め取って自分の領土にする、いわゆる戦国時代でした。朝廷や将軍は名ばかりで実権を持たなかったので、戦乱を鎮めることもできず、収拾のつかない時代でした。

 

そんな時代に、尾張(現在の愛知県)に現れた織田信長が、周辺諸国を平らげていき、天下統一が見えてきました。現在の日本の都道府県の数は47ですが、当時は68州(だったかな)。
余談ですが、九州というのは州が9つあって、九州だったんですねぇ。今は沖縄を除けば7県ですから、七州にしていい地名なんですけどね(笑)。

 

本題に戻ります。
本能寺の変の直前、信長は日本全国の半分くらいの州を手に入れていました。「残る半分が一丸となったら信長に対抗できた」は理想論で、日本の中心地(京都や大阪)を手に入れていて、圧倒的な国力差があるので、信長に敵う敵はいない状況で、天下統一は時間の問題でした。

 

信長が共を数十名しか引き連れずに本能寺に宿泊していたことは、未だに謎と言われています。隙だらけの信長に対して、家臣の明智光秀は謀反を起こしました。「約1万人 VS 数十人」ではまともな戦いにならず、信長は天下を統一することなく、49歳で人生を終えました。

 

その後、光秀は、信長のいなくなった状況で新たな国を作ろうとして、朝廷工作を行ったり、協力者を募りましたが、孤立したままの状況を変えられず、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が主君の仇を討とうと急襲し、本能寺の変からわずか11日後に討ち取られました。

 

秀吉は信長の配下だった武将を従えるようになり、反対者を討ち滅ぼし日本全国を統一し、朝廷から豊臣姓を受けました。秀吉の死後、世の中は再び荒れはじめ、関ヶ原の戦いの勝者・徳川家康によって再統一されたのちに、平和な江戸時代がやってくるのです。

 

これが、当時の大まかな歴史です。

 

何故光秀は主君・信長を討ったのか、何故わずか11日で敗死するような謀反を行ったのか…これは戦国最大のミステリーとされています。